あいさつ

私の辛くて暗い過去

はじめに

まず簡単にブログ管理人の自己紹介したいと思います。

年齢は60代の初めになるものです。

男性です。

政令指定都市住まいです。周辺環境は、程よい田舎暮らしです。

私の辛くて暗い過去

そんな私の辛くて暗い過去からご紹介します。

中学二年生で14歳になる春の日、父は会社帰りに交通事故に合い、救急車で運ばれました。

会社の人が車で迎えに来てくれて母と他の兄弟らと一緒に病院へ駆けつけました。

頭を強く打ったとのことでいびきをかいていたそうです。

そして二日後意識戻ることもなく帰らぬ人となってしまいました。

母は、その現実を突きつけられ、どうしてよいのか分からず数日は錯乱状態だったと思います。

その後しばらく母は、ひどく塞ぎ込んでいたことを思い出します。

昔のことですし、もともと貧乏暮らしをしていたのですが、私は大変切ない学生生活を送ることになったのです。

辛い気持ちや苦しさは自分だけでなく、母はもちろん他の兄弟3人も当然あったものだと思います。

ですが、当時は自分の辛さばかりを優先していたと思います。他の人の気持ちは分からなかった。

地球上から自動車が無くなれば良いと真剣に考えたこともありました。加害者や、自動車そのものを憎みました。

父親参観日が憎い

中学を卒業後、なんとか公立の高校へ進学します。

とても辛かったのは、父親参観日という行事があることでした。

クラスメイトには父親が参観会に出席してくれる人が大勢いました。

私の場合は、言うまでもなく来てくれる父親が交通事故でいないのです。

この日はとても辛かった。

そんな想いを母にぶちまけて困らせたことは何度もありました。

母は、私の兄が参観会へ行ってくれるからそれで良いじゃないと言うのですが、私にとって、兄はアニであり、父の代わりをするはずがないものでした。

不肖な子供だったのです。

一番辛いのは「母」ですよね。

親の気持ちわからずの我儘だったのです私は。

このことは今思い出しても、自然と涙があふれ出てきます。

それと、当時の「交通遺児」という言葉がひどく胸に刺さって辛かったことを思い出します。

「交通遺児の会」というところへ母と参加したこともありました。

自分が30歳過ぎてもその辛い思いは消えることはありませんでした。

自分は交通遺児なんだと。

他人の視線が酷く気になるようになりました

これからが、本題となります。

父が病院で臨終になるという場面で、私は何かにとりつかれたのでしょうか。

原因がわからないのです。

それまでは何ともなかった他人の視線が酷く気になるようになりました。

それは、どのような症状であったのかと言いますと、授業中、座席の周りにいる同級生の視線が気になってどうしようもない状態です。

廊下ですれ違ったり、通学途中でも気になります。

向こうから人が歩いてくるといつも、下を向いて猫背になったり、心の中はものすごい「恐怖」でいたたまれなくなってしまうのです。

もう少し大人になって分かったのですが、「視線恐怖症」という精神科領域の病気であるらしいと分かりました。

この悩みは誰にも打ち明けられずに悶々とした毎日を送ったのです。

60代になる、今でも多少の慣れみたいのはできましたが、辛くて苦しい時があります。

その当時将来の希望は、まったくありませんでした。

高校卒業後

なんとか高校卒業後、一旦は会社員となるも数か月後に精神病院へ入院。

病名は「自立神経失調症」だったと思います。

視線恐怖症というノイローゼだったのです

そして約半年後に退院した後、別の小さな会社の会社員として働き始めました。

ですが、精神病院を退院したばかりの者が現場で働くのですから、相当悩みました。

それで20代は、転職を繰り返すことになりました。

視線恐怖症の症状は、とても怖ろしい体験で消えることはありません。

誰にも相談できずに、悩みは日々進化し、モンスター化するばかりでした。

周りを眺めれば、楽しそうに男女交際とかしているひとがいました。

羨ましかったけれでも、自分の悩みがあまりに大き過ぎて辛かったのです。

何度「自殺」を思いはかったことか、数え切れません

20代の私は何度「自殺」を思いはかったことか、数え切れません。

そのたびに、「母」の顔が浮かび力が抜けたのです。

人よりも辛い人生の「母」に、これ以上辛い思いをさせるなんてできないと。

私の青春時代は希望もなく、毎日辛い気持ちを引きづりながら生きて行きました。

視線恐怖という恐怖感は、他人にはわからないと思います。

ここだけの話ですが、50代過ぎても「自死」を考えたことがあります。

ご縁があり30歳で結婚できました

そんな私にもご縁があり30歳で結婚できました。

結婚前に就職した会社で定年の60歳まで勤め上げました。

製造現場で通算すると41年働いてきたことになります。

その間、二人の子供をなんとか妻と二人で育て上げたのです。

60歳の定年後は、子会社に就職しました。

そこでは障害者福祉のお仕事をしている私がいます。

精神障害のひとが少しでも希望を持てるように関わってみたいと思っているからです。

最後に

通常、このような話はしません。

聞いてくれる人が居ないと思っているからです。

精神病に掛かっているんだと偏見な目にさらされるかもしれないことを、自ら進んで話そうとはしませんよね。

そうですよね。

まとめ

・中学二年生で14歳になる春の日、父は会社帰りに交通事故に合い、救急車で運ばれました

・とても辛かったのは、父親参観日という行事があることでした

・それまでは何ともなかった他人の視線が酷く気になるようになりました

・病名は「自立神経失調症」だった

・精神障害のひとが少しでも希望を持てるように関わってみたいと思っている

最後まで読んでくださり本当に有難うございました。

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